最下層の魔術師
魔術師は、濁音を響かせて這い上がる


 貴族として生まれ、大切に育てられた美しい娘が、これまた美しい王子と婚約した。そして、まさにその日、一人の女が、牢獄から這い上がってきた。
 女の名は、リーファ・シャーナ・シュライゼ。二十六身分の最下位にあるシャーナを表すSの刻印を腕に刻まれた魔術師。


 リーファ・S・シュライゼは、夜の町を駆け抜ける。髪はぼさぼさでシラミだらけ、体にはノミがついており、異臭を放っている。しかし、リーファの表情は、爽快感に満ち溢れていた。
 十年間。御国からお咎めを受けるようなことはしていないのに関わらず、十三で捕えられ、そのまま裁判も無しに牢獄に放り込まれ、生きるか死ぬかの食料と水で生命を繋いできた。捕えられている時は、時間すら分からなかった。だから、町に貼られている催し物のポスターを見て漸く、十年の時が経っていることに気付いたのだ。
 リーファは、素足で音無く石畳の道を走り抜ける。とりあえず、森に逃げ込むべきだ。しかし、十年の間で町の様子は変わり、町は大きくなった。なかなか町を抜けられない。リーファは舌打ちした。
 しかし、そんな時に、ふらりと路地から人が現れる。リーファは、驚いたが、そのまま走り続ける。
「よぉ、姉ちゃん、どうしたんだい?」
 後ろから流れてきた大きくもない声。驚いて振り返ると、自分のすぐ後ろに男が走っている。
 異国風の派手な着物に、黒い髪。そして、日に焼けた肌。不思議な風貌の男だ。
「森へ行きたい」
「俺で良かったら、案内してやるぜ」
 にやりと、と男は口元を歪めた。その時に、切れ長の目が妖しく光ったのを、リーファは見逃さなかった。


 森には無事に辿り着いた。
 風貌は怪しい男だったが、案内はきちんとしてくれたのだ。
 リーファは、切り株に腰掛ける男の姿をまじまじと見た。異国の遊び人らしき服装を纏い、刀を一本持っている。
「お姉さんは、どうして、そんなにボロボロの姿で走っていたのかい?」
 森の中へ入り込み、一息吐いているところで、ニヤっと笑った男は、そう尋ねてきた。
「お姉さんって呼ぶのはやめて。私はリーファ。おそらく、年もあなたとそれほど変わらない。まだ二十三だよ」
「俺より一つ下か」
 男は、細い目をすっと開き、驚いたように言う。
「牢屋から脱獄してきたところだから、物も食ってないんだ」
 溜息を吐くと、男は数回頷いた。
「近くに泉がある。そこで汚れを落とせば良いぜ」
「ありがとう。あなたの名前は?」
 笑顔で礼を言い、そう尋ねると、男はにやりと笑った。
「俺の名前? シュウだ」
 切れ長の目を細め、口元を歪める笑顔。危険な男だ。リーファは直感的にそう感じた。


 リーファは、シュウに、泉まで案内してもらった。服も汚いので服のまま浸かり、腕を捲くって体を洗う。
 右腕には、毒々しい字体で、Sの焼き痕がある。リーファは、消えることのないされを擦り、泥を落とした。
 そんな時、シュウの声が降ってきた。
「まさか、シャーナの者だったとはな」
 女の水浴見てたのか、ということと、やはりこいつもか、という思いが湧き出てくる。
「あなたには感謝してるよ」
 リーファは、声の降ってきた大木を見上げ。微笑んだ。やることはただ一つ。
 空気が収束した。
「エウリーナ・バルベリアン(堕ちた光)」
 光の魔術が炸裂する。音無き爆発は大木の太い幹を襲い、大木を倒す。
 静まり返った森の中で、リーファは、流石に容赦なかったかな、と思いつつ、やられてもしょうがないと思い直した。打ち所が悪くなければ、死んではいないだろう。大体、ああいう類の人間は、丈夫だと相場が決まっている、とリーファは納得した。
 しかし、リーファの心配は無用だった。
「魔術師……だから、シャーナでも殺されなかったということか」
「二ュクシア・ジャスティス(裁きの闇夜)」
 走ってくる男の足元の少し先を目掛けて魔術を放つ。男の足が止まった。
 土煙が立った。私はその間にジャブジャブと岸に上がりながら言った。
「私には、嫌いなものが三つある。一つ、身分で人を見る奴。二つ、女好きな男。三つ、暴力的な奴」
 つまり、お前だよ、とまでは言わなかったが、あまり言っても変わらなかったな、とリーファは思いながら、草陰に身を隠した。
 暫く時間が経ったが、森は静かなままだった。シュウも諦めただろうと思い、今日はここで寝ようと体を伸ばした瞬間だった。
「口には気をつけろ。首が飛ぶぜ」
 リーファは身を捩ったが、銀色の刃は容赦なく突きつけられる。
 刀の先には、鋭い黒い目を細め、口元に笑みを浮かべたシュウが立っていた。
 一言でも何かを言ったら殺されるだろう。魔術師の詠唱とは厄介なものだ、とリーファは思った。
 そんな時、大きな男の声とざわめきが聞こえてきた。
「向こうに人がいるぞ」
 シュウが一瞬目を離した隙に、転がるようにして私はシュウから離れ、急いで立ち上がり、声のした方と反対側に走り出した。
「ヘカーテ・エウリーナ(月の光)」
 小さな灯りを手に持ち、ガサガサと葉の擦れる音を立てて、リーファは走っていた。そのうち、大きな木の幹の洞を見つける。リーファは灯りを消し、洞の中に身を潜めた。


 温かい光に包まれた、木の洞。リーファは目を擦り、ゆっくりと息を吐いた。
 新鮮な空気と共に、吸い込まれるの鉄の臭い。リーファは目を細めた。
 さらに、すっと手を伸ばした時に、何やら生暖かい物に当たる。リーファが驚いて隣を見ると、そこには、派手な女物の着物が広がっていた。そのまま視線を上げていくと、シュウの顔があった。
 何故ここにいる、と思いながら、起こさないように、シュウの体を跨ぐ。
 寝息も立てないシュウの前に座り込み、洞の外を覗き込む。
 そこには、酷く凄惨な光景があった。腹や喉を斬られ、死んだ兵士や警備の者たち。地面は赤黒く染まっている。
 あまりの状況に、声を上げかけた時、ぐいっと左手を掴まれた。
「寝ているとでも思ったか」
 間髪入れずに銀色が光る。
 リーファは、喉元に突きつけられたそれを一瞥し、舌打ちした。
「全員殺したよ」
「何故殺した。殺す必要はなかっただろうに」
 リーファは声を荒らげることなく、静かに言った。すると、低い声が流れてくる。
「リーファ、世の中には色々な奴がいるんだぜ。何かを壊していないと生きていられない奴がいたって、おかしくない」
 そこで、シュウの言葉は、一度途切れた。
「破壊の旅に出ねーか」
「離せ」
 リーファは低く唸るように言った。
「手前の憎む身分制度も破壊するんだぜ」
 誘惑するような甘い声だ。しかし、それは狂気を孕んでいる。
「俺の最終目的は、この神聖レンシス王国の滅亡だ。だから、身分制度も壊れていただかないと困るんだよ」
 リーファは黙っていた。
「王家を守る全てを破壊するんだからな」
 シュウの顔は見えない。しかし、笑っているだろう、とリーファは思った。シュウは狂っている。
 しかし、リーファは、漸く口を開いた。
「右手に提案、左手に剣」
 リーファは、皮肉たっぷりの笑みを浮かべる。
 リーファは、この国に世話になった覚えはない。恨む気もないが、着いて行かないでいる理由もない。国の制度などは、シャーナである自分を縛るだけのものだった。
「その話、乗ろう」
 リーファは、悪い気はしなかった。
 すっと銀色だけが離れる。
「だが、無駄な殺傷は止めろ、良いね」
「ああ、良いぜ。約束してやる」
 その約束の真意は知れない。歌うような返答に、リーファは顔を顰めた。

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