最下層の魔術師
天使の宴


 自分で見えない場所は、自分では治療できない。
「一体何をしたんですか?」
 リーファが背中を見せた時の、ビアンカの第一声はそれだった。
 治療の役に立ちそうのないミューシア(実際、役に立たない)は、すぐに寝かせた。起きているのは、三人だけだ。
「私は、何もしていないんだけど」
 ねぇ、とシュウに同意を求めれば、だらしなく座り込んでいた男は、呆れたように言った。
「もっと他の言い方あるだろ」
 ビアンカは、何もせず、リーファの背中を呆然と見ていた。ビアンカは馬鹿ではない。状況は、容易に想像できただろう。
 リーファは、こっそりとビアンカの顔を窺った。端麗な顔には、誰が見ても明らかな、迷いが映っていた。


 それから数日後の夜のことだった。ミューシアが寝つき、シュウはどこかに行き、リーファはビアンカと二人だけになった。ビアンカは、挙動不審気味に周囲を窺っていた。リーファは、黙って座っていた。
 待っていた、と言っても過言ではないだろう。
「リーファ、逃げて下さい。あなたは、リストには載っていないのです。追われることは無いはずです。リーファ、お願いです。ミューシアを連れて、シュウから離れて下さい。三日後に、天使の大軍がやってきます」
 ビアンカが、焦っていることは、リーファにも簡単に分かった。リーファは、黙ってそれを聞くと、ゆっくりと息を吐いてから、尋ねた。
「ビアンカは、どう思ってる?」
「何をですか?」
 ビアンカの切り返しは早かった。
 リーファは、分かっているでしょ、と笑った。そして、再び黙り込んだビアンカに、はっきりと言った。
「ビアンカ、裏切る気があるなら、ミューシアを連れて逃げて」
 えっ、と驚きの声を上げるビアンカが、何かを言う前に続ける。
「そういえば、ここから首都はすぐ近くらしいね」
 リーファは天を仰いだ。広がる空はどこまでも闇だ。
「まさか、宮殿を襲撃する気ですか?」
 ビアンカは、リーファに詰め寄った。しかし、リーファは全く動じない。
「全てはシュウ次第。三日もあれば着くと思うから」
 シュウは、初めから、このことを話していた。リーファは、無駄な殺傷はしない、という約束の下、それに合意した。
「だから、それこそ、ミュウとビアンカをどうするかって……」
 リーファがそう言いかけた時、カサリ、と小枝が動く音がした。
「ねぇ、さっきから何話しているの?」
 透き通った小さな声。リーファは、声のした方にゆっくりと顔を向けた。ビアンカは、あからさまに舌打ちをした。


「ミュウ、リーファとシュウについていくから。絶対に置いていかないでね」
 最初の方はしっかりとしていた声が、少し涙声になった。
「凄く怖かったの」
 頑張ってそう言いきってから、ミューシアは、静かに泣き始めた。
 それが何を意味していたかは明白だった。リーファとシュウが牢獄にいた時、ミューシアは、自分が置いていかれたと思ったのだ。結局、ビアンカが牢獄にいることを突き止めたようだが、それまで、不安だったのだろう。
 ミューシアは、ずっと悟られないように我慢してきたのだろうか。泣くのを我慢していたところからして、その可能性も十分あった。リーファやシュウに、それを理由に置いていかれるのが怖かったのかもしれない。
 ミューシアは、既に、仲間たちに置いていかれたことがあるのだから。
 リーファは、置いていかない、とは言い切れなかった。しかし、放っておくわけにはいかない。すぐに駆け寄って、抱き上げる。しかし、ミューシアはリーファの腕の中で泣き続けていた。
「ヒュノピリア(眠れ)」
 そんな時、歌のような詠唱が流れてきた。リーファは、くたり、と頭を腕に乗せ、眠りに落ちた小さな女の子の頭を、ゆっくりと撫ぜてから、ビアンカの方を見た。
「馬鹿なドラゴンだ」
 ビアンカは、心底鬱陶しそうに呟いた。
「牢獄にいるって言っても、泣くだけだし、鬱陶しい」
 リーファは、しっかりとミューシアを抱え、ぶつぶつと言うビアンカの隣まで戻った。
「はい」
 リーファは笑顔で言った。
「はい?」
 ビアンカは、間抜けな声を出してから、リーファの顔を見た。そして、視線を下げ、半ば強引に押し付けられた小さな女の子を見た。
「どういうことでしょう」
 ビアンカは、怪訝そうにリーファを見た。
「おそらく、ビアンカが添い寝してあげたら、機嫌もだいぶ良くなるかと……」
「良くなりませんっ」
 ビアンカが、顔を真っ赤にして、全力で否定する。しかし、リーファの笑顔は、既にニヤケ顔にまで達していた。
「何考えているんですか?」
 ぐいぐいとミューシアを返そうとするビアンカを見て、リーファは思った。
 そうか、微妙なお年頃なんだ、と。
「じゃあ、三人で川の字になって寝よう。ミュウを真ん中にしてさ」
「絶対嫌です」
 ビアンカは力強く即答した。
 しかし、リーファは徐に溜息を一回吐くと、微笑みながら、尋ねた。
「どうするの?」
 ビアンカは、リーファの視線の先を見た。そこには、ビアンカの白いローブを掴んで、縋るようにして眠っている女の子がいた。
「はい、寝るよ。横になって」
 リーファは、渋々横になったビアンカごと、そっと毛布を掛けてやる。ビアンカは、未だ睨みつけてくるので(二人だけは避けたいのだろう)、リーファは、ミューシアの隣に横になった。
 木々の狭間から見える夜空には、星が散らばっていた。


 燻る朝陽に目を覚ませば、リーファの目の前には、怪訝そうに目を細めたシュウが立っていた。
「手前ら、三人で何しやがってんだ?」
 それは、彼にしては、非常に自然な質問だった。
 確かに、朝帰ってくると、仲間三人川の字で寝ていたら、普通は、驚くだろう。
 リーファは、眠り続ける二人を、横目でちらりと盗み見た。
 ビアンカとミューシアは、くっついてすやすやと寝ていた。起きている時はあんなに仲が悪いのに、と思うと、自然と笑みが零れるものだ。
「幼女趣味」
 ぼそりとシュウが呟いた。
「朝帰りには言われたくないと思うよ」
 リーファはさらりと言い返した。シュウは、居心地悪そうに目を細めた。
「今日中に森を出る」
 シュウは、まるで、話から逃れるかの如く、そう言った。
「了解。天使が襲ってくるって言うから、早めに出よう」
 そう言って、リーファは藍色の衣を羽織った。向かう先は首都、王宮。王への直接談判。詳しくは分からないが、シュウの指示に従うことにしよう、とリーファは考えていた。
 夜明けは淡い。
 刀を背負い、薄らと笑みを浮かべる男に、ついていこうと一歩踏み出した時、リーファは服の裾が何かに引っ張られるのを感じた。
「逃がさないよ」
「逃がしませんよ」
 可愛らしい笑顔と、麗しき笑顔。毛布からちょっこり出ている笑顔に、リーファは思わず顔を引き攣らせた。


 シュウは、珍しく文句一つ言わなかった。いつものように、わいわいと歩く。全く進展の無いミューシアとビアンカ。溜息がちにそれを見るリーファ、先頭を歩くシュウ。
 しかし、それは長くは続かなかった。
 夜明けにしては、眩しい光が辺りを包んだ。ビアンカが、まさか、と呟く。リーファは、天を仰いだ。
 美しい。光を纏った天使たちが、天から降りてくる。シュウの舌打ちが響いた。その次の瞬間、周囲が眩い光に包まれる。天術だ。
「ヘスティー・アレア(戦いの炎)」
「二ュクシア・ジャスティス(裁きの闇夜)」
「ニュクシア・アイギス(闇の盾)」
 ミューシア、ビアンカ、リーファの魔術が放たれる。上空で爆発音が響き、熱風が吹き荒れる。リーファは思った。天術に対抗したところで、生き残れない。
「ビアンカ、ミュウ、二手に分かれるよ。魔術が一点に集中したら、全てが飲み込まれる。二人は空から逃げて」
 魔術は、自然の原則を捻じ曲げる。使いすぎれば、全てが無に還る。どこからそんな知識を仕入れたのか、リーファは分からなかったが、今はどうでも良い。
「逃げるぞ」
 シュウの声。手を繋ぐなんてものではない。ぐわっと肩を掴まれて、そのまま、男の速さで走らせられる。背後には爆音が響き、降り注ぐ天術の欠片が、体に当たる。
 森の中をただひたすらに駆けていく。この地獄絵図のような森を、どれだけ走っただろうか。リーファは、ほとんど意識が無かった。
 しかし、その森の奥に、一筋の光が見えた。リーファは息を呑んだ。


 豪奢な白亜の宮殿に、それを囲むように建てられた家々、美しい花咲き乱れる庭園。森を抜けた丘の上にあったのは、神聖レンシス王国王都。
 逃げ切ったのだ。背後を見れば、焼け爛れた森があった。もう、天使はいない。
 隣を見れば、シュウが息を切らせていた。シュウの美しかった衣は、ボロボロになっていた。
 そして、薄明かりの中、橙色の肌に浮かび上がっていたのは、「R」の文字だった。
「レンシス……」
 身分を示す刻印は、普通、腕にある。しかし、王家の者だけは、その刻印を肩に刻む。
 リーファの呟きを、シュウはせせら笑っているかのようだった。リーファの顔を見ようともしない。ただ、その顔は、目の前に聳える白亜の王宮の方を向いていた。
「まさか、あんたがね……」
 レンシス。王族。神から最も愛され、人を導くと言われる人々。体を触れることすら忌まれるシャーナの者にとっては、天の、そのまた上にいるような人々。
 相変わらず何かを見据えるその笑みは、まるで、どう思うかを尋ねているかのようだった。
「冗談じゃない」
 リーファは、少なくともシュウよりは、人々を正しい方向に導け、倫理的、道徳的にも、上にある自信があった。何と滑稽なことか。リーファは男の顔を見た。
 隣の男はただ笑っているだけだった。憎悪の篭った笑顔を、白亜の宮殿に向けているだけだった。
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