最下層の魔術師
覇王セフィリス・サラヴァン

 少年は、幼い頃から、男が怖かった。女は嫌いだった。それでも、我慢していた。
 少年は、命が危険だからといって、自分を部屋に閉じ込める母親は嫌いだった。しかし、少年の中で、母親は女ではなかった。男は皆悪い奴で、女は穢らわしいと思っていたが、母親だけは違った。
 しかし、見てしまったのだ。心の底から恐怖を感じた。知っていたからだ。母の胸元に見える赤い痕と、苦痛の混じった嬌声で、言い表しようの無い痛みと屈辱感を思い出した。それは、おそらく、目の前で起こったこと以上の強さを持っていた。
「シュウ、この国は滅びるわ」
 黒い綺麗な瞳は、気味の悪い涙で濡れていた。
「だから、遠くへ逃げてね」
 死にゆく母親は微笑んだ。しかし、小さな少年は、その女が、母親には見えなかった。ただ、走り続けていた。少年は、世界から逃げたいと思った。しかし、どこまでも世界は続いていた。
 少年は大人になってから、母親は、あの時、自分など目に入っていなかった、と思うようになった。しかし、少年は、認められぬ罪悪感に苛まれ続けていた。そして、果て無き世界を、今も走り続けている。
 「神に最も近い存在」として生まれたのに関わらず、手を差し伸べる者は、一人もいない。少年は救われない存在だった。


 目が覚めたら、隣で眠っていたはずの女はいなかった。
 シュウは、日の差した窓を見ながら、寝過ごした、と思い、舌打ちした。すぐ隣に手を当てると、まだ生暖かい。起きてからそれ程時間は経っていないということだ。
 リーファのいるところは分かっている。シュウは、刀を片手に、宛がわれた部屋から飛び出した。
 まだ夜が明けきっていないので、王宮の廊下には誰もいない。だから、シュウは誰にも会わずに大聖堂に辿り着くはずだった。
 しかし、それは叶わなかった。
「ウェルティア」
 廊下の壁に凭れ掛かり、その男はシュウを見て笑った。そして、立ち塞がるように廊下の中心に立つ。
「退け」
 シュウは足を止め、その男を睨みつけた。
「謁見を望んでいたのでは?」
 現王は薄らと笑みを浮かべていた。
 親子なのに関わらず、一々謁見という言葉を使ってくることが腹立たしいが、今更だ。
「それは後だ」
 リーファのことを思えば、こんなところで油を売っている暇はない。
「そういえば、女魔術師を一人連れてきた、とヴァルシアが言っていたな」
 王が浮かべた笑顔は異様に嫌らしかった。
「斬るぞ」
 シュウは低い声で言った。
「ウェルティア、私を殺せば、お前が知りたいことも知ることができまい」
 王は、粘着質のある声で、さらりと言う。
「教えてやろう。お前の母の祖国を」
 そして、口元をぐにゃりと歪めて笑った。


 世界中の文化が融合された美しい城。統一感が無いと言ったらそれで終わりだが、この城の主______名は別にあるが、多くの者がセフィリス・サラヴァンと呼ぶ男は、そんなこの城を気に入っていた。
 そんな城の玉座で、セフィリスは、人文学書と歴史書を片手に、文字と言語の問題をどう解決するかを考えていた。話者の少ない言語の保護は、難しい問題だ。
 セフィリスが、そんなことを考えていると、扉が開いた。
 扉を開けた男は一礼すると、長衣を引き摺って入り、セフィリスを見上げた。セフィリスが促すと、再び一礼してから、喋りだした。
「少しずつですが、フィリス人も職に就き易くなっているようです」
 フィリス人とは、文字と武器を持たなかったが故に、農耕民族に、奴隷として扱われていた民だ。
 それをどうにかしようと、色々と政策を打ち出した効果が表れてきているらしい。
「陛下、嬉しそうですね」
 腹心の部下であり、有能な宰相でもある男が、笑みを零した。セフィリスは、それに頷くと、口元に笑みを浮かべた。
「次は教育だな」
 経済的困窮は、教育の機会を奪い、更なる貧困を生む。その連鎖を止めるのには、教育の保障が必要だ。
 そして、宰相は、調査書を置くと、出て行ってしまったのだが、静かにはならなかった。出て行く宰相と入れ違いに、鮮やかな金色の髪に甲冑姿の女が入ってくる。女は、恭しく、敬礼をしてから、畏まった様子でセフィリスの前まで歩いてきた。
「どうした? バルベロ」
 いつもは、扉を開けると、ずかずか入ってくるのに、と続けようとしたが、それよりも先に、バルベロが喋りだした。
「逆賊討伐を完了いたしました、“陛下”」
 途中までは真面目に言っていたが、最後まで続かなかったのか、くすくすと笑い出す。
「何か、陛下って自分で言っててもぴんと来ないや。セイリアだもんね。あのセイリアが、一人称を「私」にして喋っているところ見たときに、まだ噴出しそうになるんだよね」
 それは流石に失礼だろ、とセフィリスは思ったが、何も言わなかった。
「それと、最近ずっとそこに座ってるでしょ。たまには剣振らないと、私に負けちゃうよ」
「あーはいはい」
 セフィリスは、だるそうに言いながら、読んでいた本を置くと、立ち上がる。
「ほら、王様なんだから、しゃきっとしないと」
 バルベロは、ふわりと笑った。聖騎士出であり、女であるため、嫉妬や蔑みの目で見られているのは、セフィリスも知っている。それでも、バルベロは影一つない顔で笑う。
 彼女の笑顔が、世界の頂点に立つ男の最も大きな支えであることは、その男自身も分かっていた。


 薄明かりの差し込むレンシス大聖堂。神に最も近いその場所で、リーファは、神と対峙していた。
「この国を壊してよ」
 リーファは静かに言った。念のための魔術は発動寸前だ。
 神は、転生させる前に、記憶を消すのと同時に、魂の持つ力を奪い取る。自らが神であるために。自力で転生したリーファの魂は、神に触れられていないため、神に抵抗できる魔術の力はあるはずだ、とリーファは思っていた。
「こんな差別だらけの国を作って、何をする気だった? 人間の手で生まれた国だったら、人間の手で止めるのが筋だけど、神が創った国を何故、態々人間が壊さないといけないのかな」
 神は、階段に凭れ掛かったまま黙って聞いていたが、リーファが全て言い終わると、口を開いた。
「作ったのは人間だ」
 相変わらず、人の匂いを欠片も感じさせない声だった。声と言えるのかも分からない。むしろ、音と言った方が正しいだろう。そんな声だった。
「そして、神は絶対故に神であり、人は神が絶対であることを望んだ。望むのは人間で望まれるのが神。人の心に住んでこそ、神は神になれる。お前は、神が要らない、と言い切れるか?」
 神はそこまで言うと、ゆらりと動き出した。リーファは、魔術を発動させようとしたが、それは叶わなかった。
 神が消えたのだ。どこへ行ったのか。リーファは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
 そして、リーファの予測は正しいものとなった。ふと背後に気配がしたかと思うと、首に輝く何かを当てられる。
「神という力を以って、お前より強くなる者もいよう」
 リーファは、耳元に囁かれる声に、僅かに表情を歪めた。それは、単に神が背後にいて、自分が不利であることによるものではなかった。神の言葉によるものだった。
 それが、命取りだった。
 神は、ぐにゃりと口元を歪めて笑った。そして、勝ち誇ったように冷たい目を輝かせながら、銀のような白い手でリーファの頬に触れる。リーファは振り払おうとしたが、それより先に、白い掌が喉を覆い、そのまま、壁に押し付けられる。
「そうだ、お前は誇り高い。常に全てを見下していたのは、お前だ。お前は、あの王子に同情した。同情することによって、自分を優位に立たせることができた」
 リーファは、何も言い返せなかった。
「我が身が可愛いだろう。そう、それでこそ人間だ。お前は、あの男と同じだ」
 美しい声である。それ故、残酷なほどに、よく響いた。
「あの男ならば、こんなヘマはしなかっただろうがね」
 それと同時に、背後から強い衝撃が襲い掛かってきた。神に蹴られたのだ。そのまま、階段の方へ突き飛ばされたリーファは、点まで続く段の一つに何とか掴まる。
 階段の下は、闇に包まれていた。空だけが、寒々しいほど華やかだった。
 リーファは、腕の力だけで何とか体を持ち上げようとしたが、それより先に、神がリーファの手を足で踏みつけた。リーファは、思わず苦痛の声を上げたが、すぐに歯を食いしばって耐えた。
 しかし、リーファが掴んでいた段は消えた。リーファの体はただ落下していくだけだった。
「私は、セフィリス・サラヴァンの魂を持って生まれたことに、一欠けらの誇りも持っていないわけじゃない」
 それは戦意の表明である。
 リーファは噛み付いた。それが悪足掻きだと分かっていた。それでも、リーファは言い切った。
 リーファには力がない。あの覇王のような聡明さも強さもない。セフィリス・サラヴァンがリーファに与えたのは、生きる意志と、魔術の力、そして呪いのような想いだけだった。一体その中の何が、この絶対なる神に対抗できる物になろう。
 しかし、リーファが、セフィリス・サラヴァンの魂を持っていることを、真に誇りに思えば、道は拓ける。そうやって自分を肯定することだけが、リーファが唯一できることだ。
 そう、何かにしがみ付かなければ、生きていけないリーファにとっては。
「ごめんね、シュウ」
 自分よりもシュウの方が、ずっと何かに囚われている、とリーファは思っていた。自分の方が、ずっと自由だと思っていた。しかし、それは違った。
 リーファ・シャーナ・シャライゼの体は、堕ちていった。しかし、至高の闇は、未だ堕ちない。否、堕ちることができなかった。

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