闇に包まれた牢獄の一室に、一組の男女が座っていた。
「へぇー、月に帰っちゃったんだ」
女の声は、決して淡々としているわけではないが、そうかと言って、暗く重々しいものでもない。特徴がなく、何の深みも感じられないが、軽軽しくもない声だった。
「無責任だとは思わねーか?」
男が面倒臭そうに言った。
「惚れた方が悪いと思うけど」
女がさらりとそう言うと、男が非難の混じった目を向けた。
「お姫様だろう。月に王子様がいるかもしれないし、本当に残りたいのなら、残れば良いと思うけどな」
「世の中、手前みたいな女ばかりじゃねーよ」
男は、何の含みも持たせないような声で言った。
牢獄は、未だに暗い。
レナーサ・レンシス・クィルニアの従者、ローリアは、城下にある自らの屋敷の書斎で読書をしていた。
美しい木目の壁は、ローリア自らが選んだものである。とてつもなく大きい屋敷ではないが、決して小さくもないそんな屋敷は、ローリアのお気に入りだった。
そんな静かな屋敷の一室、書斎の扉を、控えめに叩く音がして、暫くすると、ゆっくりと扉が開いた。
「ローリア様、お食事が出来上がったそうです」
入ってきたのは、鳶色の髪のメイドだった。ローリアが、一年程前に拾ってきた時には、全く仕事ができなかったのだが、最近は大抵のことはこなせるようになってきた。
ローリアは一番のお気に入りだったが、対する彼女は、あっさりとしていた。
「エウラドーラ、ありがとう」
ローリアは微笑みかけたが、メイド、エウラドーラは愛想笑いさえも返さなかった。ただ、自分の仕事は済んだとばかりに、その場を去っていく。
エウラドーラは、生気のない目をしていた。そして、その目には、ただ目に入るものしか見えていないかのようだった。
ローリアは、エウラドーラの去った部屋で笑っていた。普段は滅多に出さない声を出して、笑い続ける。誰もいない書斎で笑い続ける物静かな男。それは、不気味以外の何物でもない。
そして、その目は、目に入らないものしか見ていなかった。
エウラドーラは、下級貴族の四女だった。そんな彼女は、一年程前、ローリアの屋敷のメイドになった。
下級貴族故に、エウラドーラの家は困窮していた。一人娘が奉公に出なければならぬ程に、毎日の生活に困っていたのだ。
エウラドーラは、自分の小さな部屋から、月を見ていた。満月まで、あと数日であろう月である。
エウラドーラがこの屋敷に来てから一年が経っていた。エウラドーラは溜息を吐いた。何故か、屋敷に来てから、ずっと憂鬱な気分が続いているのだ。それは、焦燥感に似ていた。
もう、深まった夜の中、誰も起きていないだろう。エウラドーラも、明日の仕事のために寝よう、と思った矢先だった。
大きな翼が空を覆った。
元は美しい黒だったののだろう。しかし、その翼は、赤黒くなっていた。ただ、その目は優しい鳶色をしていた。そのため、エウラドーラは、悪い者ではないことをすぐに悟った。
現れた者は、美しい堕天使。
「リーファ、漸く見つけました」
堕天使は、開いた窓から入ってくると、エウラドーラに近づいてきた。エウラドーラは、怯えはしなかったが、驚いた。当然のことだが、エウラドーラには、堕天使の知り合いはいない。
「何しているんですか。大変だったんですよ。シュウの女遊びは日に日に酷くなるし、あの馬鹿ドラゴンは泣き続けるし、何度あの二匹を闇に葬り去ろうと思ったことか」
エウラドーラは困惑した。一体何だか分からないが、とりあえず、何となく、シュウという人間は碌でもない奴だと思った。
「どなたでしょう?」
エウラドーラは、尋ねた。すると、その堕天使は、目を丸くした。
「記憶がないんですか? あなた……」
そんなことはありません、と言おうとしたが、それより先に、堕天使は言った。
「あなたは、リーファ・シャーナ・シュライゼ。私はビアンカと言いますが、ミューシアやシュウの名に聞き覚えは?」
碌でもない人間と、あともう一人は、リーファがいなくて泣いていた人だろう。エウラドーラには、心当たりが無かった。
「私は、エウラドーラと言います。おそらく、人違いかと」
泣いている人がいるのに、人違いの自分なんかに構っているのは、時間の無駄だ、とエウラドーラは思っていた。
「そうですか。それは、申し訳ございません」
堕天使は、あまり申し訳無さそうな表情をしていなかった。そのため、エウラドーラは自分の言ったことが、全く信用されていないことをすぐに悟った。
この堕天使は、未だにエウラドーラのことを、リーファだと思っているらしい。
「また、来ても良いですか?」
そう言って、ビアンカは綺麗に微笑んだ。背後には、僅かに掛けた月がかかっていた。
「良いですよ」
エウラドーラは、そう答えた。
月の所為だろうか。その堕天使は光って見えた。
翌日の夜も、エウラドーラは、狭い自室の窓際にいた。窓は開けてある。ビアンカは、明日来る、とは言っていなかった。しかし、エウラドーラは待っていた。待ち遠しかったからだ。
そして、堕天使はやって来た。挨拶をしようとエウラドーラが口を開くより前に、翼がゆらりと揺れた。
「セイリア」
紡がれるは、全てを呼び覚ます旋律。エウラドーラは眩暈がした。
セイリア、と呼ぶ声は、ただ一つだ。心地良い高さの女性の声。それと同時に流れ込んでくる記憶は、凄まじい物だった。
エウラドーラ、否、リーファ・シャーナ・シュライゼは、全てを思い出した。
「それ、どこで聞いた?」
ビアンカは知らないはずだ。まさか、シュウがリーファを探しているはずが無いのだから、彼が全てを話したということだろうか。リーファは、尋ねた。
「シュウが、そう呼べと」
ビアンカは、目を見開いていた。
「ありがとう、ビアンカ」
リーファは笑った。ビアンカは、セイリアが何を指すのかは、分かっていないらしい。
「綺麗な黒だったのにね」
どこまでも純粋な黒だった翼は、赤黒く染まっている。夜闇でも輝きを失わない、天使特有の鮮やかな亜麻色の髪も、今は暗い。
「リーファ、心配したのですよ。どうして、こんな屋敷に……」
ビアンカの鳶色の目が、輝いた。
「それは、分からない。大聖堂で、階段から落とされてから、記憶が無いんだよね」
リーファがそう言うと、ビアンカは溜息を吐いた。
「あの人は、あなたをずっと探していました。一年間、ずっと、生きているかも分からないのに……女遊びって言ったのも嘘ですよ。あの人は、夜、ずっとあなたを探していました」
あの人とは、シュウのことである。
何故探していたのだろう。リーファには、不思議に思えて仕方が無かった。シュウは明らかに怒っていたし、自分に憎悪を向けていた。
自分を殺すために探していたのだろうか、とリーファは思ったが、シュウがリーファを殺す機会はあったはずだ。シュウは、一体何を求めていたのか。それは、王宮から続く、リーファの疑問だった。
「リーファ、あの人と何があったのですか?」
「色々とね」
シュウは何も話していなかったらしい。怪訝そうに顔を顰めるビアンカに、リーファは何も答えず、逆に尋ねた。
「シュウは、何か言ってた?」
「俺は裏切り者には容赦しねぇ、だそうです。どうします? 焼いておきますか? 凍らせておきますか?」
シュウにも記憶が無いのだろうか。リーファはそれを疑った。彼も記憶を操作されているのだろうか。しかし、そうなれば、益々リーファを探す理由が分からなくなる。魔術師など、替えは幾らでもあるだろう。
「何もしなくて良い」
リーファは、そうとしか答えられない。一瞬、えっ、と小さく驚きの声を上げたビアンカをリーファは見た。そして、重要なことを思い出した。
「それで、ミュウとはどうなったの」
僅かに揺れていたビアンカの翼が、ピタリと止まった。それと同じように、月光のあたり具合で揺れていた双眸に宿る光も綺麗に静止する。
若いにしても、分かりやすい。リーファは、一生懸命笑いを押し殺した。
「何であの馬鹿ドラゴンが出てくるんですかっ」
何だ、一年も経ったのに進展していないんだ、とリーファは残念に思った。そして、その心は、動きに出ていた。
「今、舌打ちしましたねっ」
柄に無く声を荒らげるビアンカを、リーファは軽く笑って流した。
そこは、薄暗い閨だった。薄暗い閨に女が一人。主はいない。もう何週間も、主はこの部屋を空けている。
その女の声は、酷く儚かった。生まれつき、というのもあるが、そういう風に育てられていた。一人では生きていけないように、男の心を掴むように、女は育てられてきた。
生き生きとした笑顔を浮かべ、大地を駆け回る彼女と違って、女は静かに生きてきた。
「私はあなたのことをお慕い申し上げておりますのに……」
女は最初から分かっていた。自分は世継ぎを生むだけのために傍に置かれている。心を寄せる男は最初から、自分など見ていない。
主は、幼馴染の女が裏切った時、激怒した。彼女を地下の独房に入れた。しかし、彼は毎日のように彼女の元に通った。
彼女が裏切ったという事実は、主と彼女の間を切り裂いたわけではなかった。主の足枷を無くしただけだったのだ。もう、主は彼女しか見ることはできない。
彼女は裏切った。でも、自分は主を慕っている。しかし、主の心には、彼女しかいない。主の中に僅かにあった女の存在も、彼女は全て消し去ってしまった。
「何故、あのお方を……」
それが、女、エレカが漏らした、最初で最後の恨み言だった。
満月の夜、迎えに行く。それまでに逃げ出したら、背後から斬り殺してやる。
それが、ビアンカを介して伝えられた言葉だった。つまり、シュウは相変わらずである。
迎えに来てくれるというのは嬉しいのだが、リーファは困惑していた。たとえ、迎えが来ようとも、リーファの罪は晴れない。ただ、その罪は深まるだけなのだ。
リーファは、腕に刻まれたメイルを示す文字を見た。リーファのこの状況に、神が関与したことは確実だ。身分を表す刻印は、魔術ぐらいでどうかなるものではない。神は何故リーファを殺さなかったのだろうか。その答えは、簡単に出た。
「私は強くはないけど、あんたに嘗められる程、堕ちてはいない」
それは、良い意味でも、悪い意味でも、ということである。
リーファは、夕方までの仕事を終え、自室の堅いベッドに腰掛け、窓の外の夕焼け空に目をやった。ビアンカは、満月まで毎晩来ると言った。今日も来るだろうか、と思っていると、扉をノックする音が聞こえた。
誰だろう、と思いながら、どうぞ、とだけ言うと、ゆっくりと扉が開く。
「エウラドーラ」
「ローリア様、どうかなさいましたか?」
私は今エウラドーラだ、と心の中で呪文のように呟きながら、リーファは頑張って穏やかな笑みを作った。言いたいことは山程ある。しかし、ここを穏便にやり過ごさなければ、全てが駄目になる。
「とうしたのですか? そのような浮かない顔をして」
リーファは、シュウのことを考えると溜息が出た。それで一日過ごしていたところを、目敏く察知されたらしい。
「申し訳ございません」
申し訳ないのは、お前の存在だ、と思いながらも、リーファは耐える。
「謝ることはございません」
ローリア、否、エレカ。セフィリス・サラヴァンのただ一人の妾の名前だ。妾と言いつつ、正妃がいるわけでもなかったのだが。
セフィリス・サラヴァンが、色々とやらかした所為で、乱れた魂の流れを伝って転生してきたのだろう。勿論、バルベロと違い、自分の意志でこの世に生まれてきたのだろうが。
リーファは、シュウに対しては思うことがあったが、ローリアに対しては何も無かった。それは、セフィリスがエレカのことをなんとも思っていなかったためではなく、自分の意志でここにいるからである。
「そういえば、最近、よく月を見ていますね」
リーファはぎくりとした。そして、ローリアの微笑に、僅かに表情を歪める。ビアンカと一緒にいるところを見られたらしい。
「もうすぐ満月です。」
リーファは、なるべく平然を装った。
ローリア、否、エレカは、リーファを見ていない。セフィリス・サラヴァンの魂しか見えていないのだ。神にリーファの方が覇王だと教えられ、頼まれ、喜んでリーファを引き取ったのだろう。
リーファは、そこまで考えてある疑問が浮かんだ。
シュウは、何を見ているのだろうか。
「セイリアで思い出したか」
そう言った剣士の顔は、決して明るくは無かった。
「嬉しくないんですか?」
ビアンカが尋ねても、シュウは曖昧に返事をするだけだった。ただ、ぼんやりと月に目を向け、漆黒の瞳を不快そうに細めるだけだ。
「リーファが変です。シュウ、何かやらかしましたね」
僅かな間があった。シュウは、何かを考えるように、すっと目を閉じてから、ゆっくりと言った。
「何かやらかしたのは、俺じゃねーよ」
「やはり、何かあったのですね」
すぐに食いつくと、用意してあったかのように、すぐにシュウは言った。
「お前が想像できるようなことではないから、安心しろ、幼児趣味」
「誰がですかっ」
手前以外にいねーよ、と呟きながら、シュウはゆっくりと息を吐いた。
「だが、リーファとゆっくり話をする必要はある」
シュウは、ビアンカの方を見ていない。ただ、ぼんやりと空を見ているだけだった。それは、意図的なものではなさそうだった。ビアンカと話しながらも、何か別のことを考えているようだった。
「何もしないで下さいよ」
ビアンカは声を低くして言った。しかし、その声の低さは、シュウには敵わない。
「手前、妙に突っ込んでくるなぁ」
シュウの声が、僅かに高くなった。そして、シュウは漸く、ビアンカを見た。ぼんやりとした漆黒が、ビアンカを映していた。
「当たり前ですよ。あなたのような歩く危険物が……」
「手前なぁ……危険物はあいつだぜ」
さらりとシュウはそう言った。しかし、すぐに顔に、やってしまった、というような表情が浮かぶ。ビアンカは、しめた、と思い、すぐにシュウに尋ねる。
「どういうことですか?」
「本人に聞けよ」
シュウは、投げやりに言うと、俺は寝る、と立ち上がり、少し離れたところにある大木に凭れ掛かった。
ビアンカは、溜息を吐いた。一体何があったのか。そう思いながら、「何かがあった」白亜の王宮の方向に目をやった。
「私、何もしていない」
少女は冷たい石床を蹴飛ばされるようにして前へ進まされていた。しかし、少女は自分を蹴飛ばす大人の男たちを、鳶色の目で睨みつけていた。
「黙れ、シャーナの分際で」
少女は、それに対して何か言うことはなかった。ただ、冷たい鳶色の目をすっと細めた。
「うわー、気持ち悪い。触ってしまった」
蹴る時に、「誤って手で触れてしまった」男の一人が、耳障りな高い声で言う。
そう、このとき魔術を使っておけば良かった。しかし、少女は使わなかった。
自分は何もやっていない。だから、罪を問われるなんてことはない、と信じていたのだ。少女は、まだ十三歳だ。少女は、夢を見ることが許される。正義という夢を。
そして、シャーナの牢に入れられた少女は、気の狂った者たちのいる中で、はっきりと言った。
「大丈夫。誰も死刑にはならないよ。食べ物は脅してでも持って来させる」
正気の者も、皆飢えており、気力も生命力もなかった。その中で、魔術師の少女はしっかりと立っていた。
「おい、お前、生意気な口叩いているんじゃねーよ」
囚人の一人が、少女の髪を鷲づかみにして、何度も何度も顔を殴った。
少女は殴られても微笑んでいた。血が流れても何も言わなかった。
自分が間違っていたと思えば、素直に謝り、弱者には見返り無しに救いの手を差し伸べる。誰もが少女を、素晴らしい大人として見るようになった。そう、誰もが。
強く気高い少女。彼女はいつだって微笑んでいる。常に優位にある。優位になくては、シャーナの少女は、十年の時を生き延びることができなかっただろう。
少女の牢から死刑囚は出なかった。しかし、少女が脱獄した時、その牢には生きた者は一人もいなかった。
満月の夜が来た。
月は明るかったが、別に洒落た物ではなかった。平凡な満月である。リーファは色々と複雑な思いもあったが、ミューシアに会えると思えば、心も浮き立った。
「ローリア様、どうかなさいましたか?」
「顔色が悪くて心配で……ところで、月が綺麗だと思いませんか?」
そして、目の前の男と漸く離れることができると思えば。
何故、ローリアがここにいるのか。答えは簡単だ。彼がこの屋敷の主だからであり、エウラドーラがメイドだからである。つまり、リーファが彼の来訪を拒否できないからである。そして、それが意味するのは、リーファが拒否できるのならば、既に拒否しているということである。
何故ここまでリーファが嫌うのか。それは、元を辿れば、セフィリス・サラヴァンが、エレカを煩わしく思っていたところに由来するのだが、リーファ自身としては、その程度で片付けて欲しくはない。
リーファは、この人間の恋愛事と勘違いで、自分の人生が狂わされたことに怒っている。怒らない方が無理だろう。そもそも、リーファ・シャーナ・シュライゼとは、恋愛を軽んじる傾向にあり、その程度のことで、という思考の流れに至ってしまうのだ。
つまり、どうしようもない。
「私は一介のメイドです。お気になさらなくても結構です」
リーファはできるだけ淡々と言った。当然のことながら、羞恥を隠しているわけではない。年頃の男性にそう言われて時めく程可愛くはないリーファは、嫌悪を隠しているのだ。
「思い出したのですか?」
ローリアの白い横顔に、薄らと影が差している。リーファは、それを見て、僅かに表情を歪める。
バルベロが優しい春の日差しであれば、エレカは冬の月だった。どこか寂しげで、そして美しい。何かに頼らなければ、生きていけない、貴族らしい貴族の女性。
「何のことでしょう?」
リーファは恍けて見せた。しかし、それはほとんど意味を為さなかった。
「取り引きをしませんか?」
夜の中の笑みは妖艶で、ゆらりと差し伸べられる手は、艶かしい。
「今さら?」
リーファは、本音が出てしまい、ぎくりとしたが、その必要はなかった。
「侵入者です。警備の者は、全てやられました」
突然入ってきた報せ。
そう、今夜は、満月。
君は裏切らないね、とリーファは心の中で呟く。
「バルベロですか」
ローリアが恨めしげに呟いた。
「何故、あなたはバルベロに惹かれるのですか?」
「惹かれていない」
リーファは声が荒くなるのを感じた。心に残る奇妙な感覚を無視し、それを誤魔化すように迎えの方へ行こうとする。
しかし、ローリアがそれを許さなかった。
腕を掴まれたかと思うと、そのまま引き寄せられ、力だけで押さえ込まれる。慈しむように寄せられる滑らかな肌に、嫌悪感を抱きながらも、リーファは声を上げた。
「ニュク……」
魔術を使うために夜の女神の名を叫ぼうとするが、骨ばった手で口を抑えられ、それは阻まれる。所詮女の力だ。リーファは噛み付いた。しかし、それも無駄な抵抗だった。
そもそも、シャーナの体というのは、力を弱くされている。最下層に相応しいように、神によって作り変えられている。
それでも、抵抗しなければ、貞操の危機だ。冗談じゃない、とリーファは思い、必死に噛み付いた。
しかし、いきなり扉が開いた。護衛の者たちが流れ込んでくる。彼らは、顔一杯に恐怖を浮かべながら、懇願するかのようにローリアを見た。ローリアの力が一瞬弱まる。
リーファはその隙を見逃さなかった。ローリアを振り払って、護衛が入ってきた方の扉へ走る。
その時、扉の向こうにふと影が現れたかと思うと、目の前で、紅い飛沫が飛ぶ。リーファは、生暖かい液体を頭から被った。不快以外の何物でもない。しかし、何故か心は軽い。
薄らと目を開けると、紅い衣と、薄暗い中で映える白い歯。そして、もう息もしていないであろう護衛の者たち。
こんなことをできるのは一人しかいない。仮にも貴族の雇っている護衛の者を、何の躊躇いもなく、一瞬で切り裂ける者。赤黒い血を頭から被っても、白い歯を出して笑える剣士。そして、翻る派手な異国の衣。
「出迎えはねーのか? かぐや姫サマ」
シュウは、口元を歪めるようにした笑みを、リーファの方へ向けた。