最下層の魔術師
ドラゴンと天使

 それは、朝日の中で、皆で朝食を食べている時だった。あまり美味しくない焼き魚を頬張りながら、リーファはまったりとお湯を飲んでいた。
 お茶などという贅沢品は、滅多に飲めないのだ。この一年間、食事だけは良かったな、と思いつつ、つい先ほど袖を通した藍色の衣を見る。一年前に着ていたのと、それ程変わらない。シュウが朝、リーファに投げて寄越したのだ。選ぶ人間が変わらないのだから、驚くべきことでは無いだろうが。
 そう、つまり変わり映えの無いビアンカとミューシアの言い合いを聞きながら、まったりとしていた丁度その時、自然の風とは思えない風が、ぶわりと吹いたのだ。
 現れたのは、神々しい光放つ天使だった。鮮やかな藤色の翼に、金色の長い髪。しかし、その顔や体つきから、女には見えなかった。
 ぶっ飛んだ焚き火に、リーファは舌打ちしたくなったが、そこは抑えた。
「ビアンカッ、お前……」
 しかし、その天使から漏れた声は、お世辞にも天使らしくはなかった。気の良い男の声。やや高めのビアンカの声でもなく、そうかと言って、何だかんだ言っても静かな雰囲気のある低めのシュウの声にも似ていない。
「似合いすぎだろ、堕天使」
 天使がそう言った瞬間、世界は眩い光に包まれた。


 隣国に焼畑農業なる物があるらしいが、リーファたちは農業をしようなどと思っていたわけではない。しかし、森は焼けていた。
 リーファは、ビアンカの魔術炸裂よりも先に、強力な魔術を使って、自分とミューシアと、それから余裕があったのでシュウも守った。
「何故、こんなに天使らしからぬ奴ばかりが集まる?」
 衝撃の所為で地面に転がっていたシュウが、立ち上がって、尤もなことを言った。
「天使らしい奴は、好んでビアンカ様に近寄ったりしないぞ」
 藤色の翼の天使は、シュウに向かって、にっこりと笑った。その言葉には、リーファだけではなく、シュウまでもが納得したようだった。
 確かに、肉は食べる、任務は果たさない、魔術は使う、おまけに短気な同族に、近づこうとする天使はなかなかいないだろう。リーファは、この時点で、藤色の翼の天使が、相当厄介な性格をしていると考えられたので、思わず溜息を吐きたくなった。
「それで、こいつがお前が懸想……」
「あれ? シンラ、どうしました?」
 ビアンカが輝かんばかりの笑顔で、魔術で生み出した黄金の剣をシンラと呼ばれた天使の首元に向けた。
「堕天使はドラゴンを庇い、神の怒りを買って、堕天したらしいぜ」
 突然耳元で囁かれたのは、低い男の声。予想外のことで、間抜けな声を上げてしまいそうになったのを、リーファはギリギリのところで抑えた。ふと、隣を見ると、いつの間にか、シュウが座っていた。顔には呆れたような表情が浮かんでおり、他意は無いらしい。
「それで、この状態?」
 一瞬頭を過ぎった考えが、何だか腹立たしかったので、リーファは淡々と聞き返した。すると、シュウは、欠伸をしながら、頷いた。


「ほう、生命の子だな……どれどれ」
 気を取り直して、とでも言うように、シンラと呼ばれた天使は、物色するかのようにミューシアを見た。ミューシアは、小さく悲鳴を上げて、リーファの方へ走ってきたので、リーファはミューシアを抱き上げた。
 生命の子の意味を知っているリーファは、シュウの顔色を窺った。シュウは知らないようだった。それどころか、元々興味が無いため、面倒臭そうな顔で天使の言い合いを見ている。
「あはははは、懐かれてはないようだなぁ。報われねぇ」
 明るい笑い声は、いきなり止んだ。鮮血が飛ぶ。シンラの喉元を、ビアンカが小さく突き刺したのだ。
 隣にいたシュウが目を細めた。ミューシアは、目を見開いて、震え始めた。リファは、抱き締める力を強くする。
「堕天した僕には、あなたを生かしておく理由はありませんから」
 ビアンカの声は冷やかだった。だからこそ、それはさらに加速する。
「知っているか? 生命の子。お前が生まれた所為で、お前の一族は滅ぼされたんだ」
 シンラの笑みは凶悪だった。
 そして、堕天使ビアンカは、元々短気である。
 横に傾けられた顔。細められた双眸。口元に浮かぶのは不気味な笑み。それがすぐに行動に移ることを、リーファは知っていた。
 神と対立するは世界。世界は、生命があってこそ、世界となる。
 頭に響くのはそんな言葉だが、リーファはそんなことについて一々考えている場合ではなかった。暴風が吹く。直接的な魔術を使うのは憚られたのだろう。そして、ビアンカの頭に、「ドラゴン」はあったが、「人間」はなかったのだろう。
 人間は空を飛べない。
 リーファは空中でミューシアを離した。空色の髪が視界に移ったかと思えば、それは艶やかな鱗に変わる。
 リーファはそのまま落下した。ミューシアが助けてくれるような動きを見せたが、元々運動神経の悪いリーファには、それに飛び乗るような芸当は不可能である。目下に広がるのは森だから、大怪我はしても、打ち所が悪くなければ生き延びれそうだ、とリーファは思いながら落下した。いまだに強風が吹いているため、それ程落下速度は速くない。
 しかし、視界が緑に変わっても、体が止まることはない。あと少しで地面である。そんな時、腕に強烈な痛みが走った。
「脱臼していないか?」
 そのまま体を木上に持ち上げられる。
「助かったよ」
 そう言って、リーファは、木の幹に腰掛けた。


 レンシス故の抜群の運動能力に救われたリーファは、軽く礼を言う。ミューシアとビアンカは、天使一人に襲われたところでどうにかなるわけでは無いため、リーファはゆっくりと息を吐く余裕があった。
「生命の子か……」
 思わず考えていたことが、口から漏れる。
「知ってるのか」
 それは、疑問と言うよりも、確認に近かった。黒い髪を揺らし、シュウは、リーファの方を向く。
「知らないって言ったら嘘になるけど、何故、この時代に生まれたのかが分からないね」
 リーファが知っているのは、勿論、セフィリス・サラヴァンが知っていたからである。それ以上のことは知らない。
「どういうことだ?」
 シュウは怪訝そうに目を細めた。
「生命の子が、自然に生まれてくることはありえない。誰かが、意図して生み出したはずなんだけど、相当の実力者じゃないと無理だね。シュウ、ここ数年で、私よりも強い魔術師はいた?」
 基本的に、下層階級には、魔術師は生まれない。宮廷魔術師に、リーファは勝てる自信がある。リーファは、王国一の魔術師である自信がある。そして、リーファは、自分が生命の子を生み出すほどの魔術の力を持っていないことを理解している。
 だから、リーファは大して期待をせずに尋ねた。しかし、シュウの反応は、意外な物だった。
「いた……いたな。手前よりも強いと思う」
 漆黒の目を細め、前を向いたかと思えば、すぐに天を仰ぐ。
「どのぐらい強い?」
 リーファは、シュウの奇妙な動きを怪訝に思いながら、そう尋ねる。
「この王国に、いや、この大陸全体に魔術を掛けたな。相当な物だと思うぜ」
 リーファは目を細めた。大陸に魔術を掛ける。それは、人間では不可能であろう領域だ。
「名前は?」
 風が吹いた。
「セレシア・フェーリア・レンシス。故王妃だ」
 男は、低い声で、そう紡いだ。
 故王妃。それは、シュウの母親を指す。
 シュウはあっさりとそう言ったが、リーファと目を合わせようとはしない。リーファは目を細めて、シュウの横顔を見た。


 リーファの予想通り、ビアンカもミューシアも無事だった。
「やっぱり、リーファは変だし、シュウも変」
 ドラゴンと堕天使は、ふわふわというには少し速めの速度で空中を旋回していた。
「今頃気付きましたか」
 ビアンカは、呆れたように言った。
 因みに、シンラはというと、先程二人で天まで吹き飛ばしたところである。勿論、「ただ」で吹き飛ばしたわけではない。
「何か隠してるよね。それも、私に関係してる」
 ミューシアの表情に影が入る。それを見ていたビアンカは少し間を置いて、と言うよりも、僅かに戸惑うような表情を見せてから、言い難そうに言った。
「……気にしなくて良いんじゃないんですか?」
 何となく声が上滑りだ。ビアンカは、自分の声にひやりとしたが、心配は無用だった。
 相手はビアンカの想像を遥かに超越したところにいた。
「でも、リーファとシュウのことだよ」
 きょとんと首を傾げる。
「どうしたの?」
 ドラゴンの姿でも、大きな青い瞳は変わらない。
 頑張って慰めようとしたのに、というやり切れない思いに駆られたビアンカは、泣きたい気持ちを必死に抑えた。


 セレシア・フェーリア・レンシス。神聖レンシス王国王妃。美しく聡明な王妃と言われている。それをリーファがシュウに言うと、シュウは実に複雑な表情をした。
「まぁ、人によるな、故王妃は。俺は駄目だ」
 誰が母親の評価をしろと言った。
 リーファはそう思ったが、黙っていた。
 しかし、いつまでも、木の上にいても仕方が無い。リーファが、木から降りよう、と思い始めたとき、リーファより先にシュウが飛び降りた。リーファは、自分を飛び降りようとするが、何故か飛び降りることができない。
「怖いのか?」
 そう尋ねたシュウは、いつもの人の悪い笑みを浮かべてはいなかった。
「そんなことは無い筈。昔から高いところは好きだった」
 リーファは不思議に思った。小さい頃から、木登りは得意だった。遊び道具などないシャーナの子どもの数少ない遊びの一つだった木登り。その中でも、リーファは木登りに自信があった。
 高いところが怖いなど思ったことが無いはずである。
 リーファがどうしようか、と考えていると、シュウが言い難そうに尋ねた。
「手前、あれから何があった」
 リーファはシュウの表情を見た。ふざけているわけでは無さそうだった。リーファは必死に思い出す。何か思い当たることは無いか、と。
「階段から落ちた」
 リーファは思い出した。
「天に続く階段から落ちて……そういえば、あの時、かなり怖かったかもしれない」
 リーファは神に階段から落とされた。落下する途中で、意識を失った。落下する途中で、物理的要因で意識を失うはずは無いのだから、精神的なもののはずである。
 リーファがそう言うと、シュウは思いっきり表情を歪めた。
「かもしれない、って手前……あれから落ちたのか?」
 リーファは頷いた。落ちたのは、紛れも無い事実だ。
「それで、自分では無理だからさ、後ろから軽く突き落としてくれると有り難い」
 シュウの動きが固まった。信じられない、というような表情だ。リーファは何故だか分からなかったが、シュウは、正気か、と三度も尋ねた挙句、再び木の上に登り、リーファを木から落とした。
 リーファは、無事に木の上から降りることができたので、シュウに礼を言ったのだが、シュウは釈然としない表情をしていた。
 勿論、リーファはその理由も分からなかった。

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