最下層の魔術師
堕ちた光、至高の闇


 シュウは、それから何も尋ねなかった。リーファにとっては、その方が好都合だった。
 大聖堂は、薄暗かった。紅い光が燈り、真っ暗というわけではなかった。しかし、その生暖かさが、不気味さを際立たせていた。
 リーファは誰もいない大聖堂の中に入ると、祭壇のタペストリーに手をかけた。リーファは、シュウの姿を視界に映さないようにしながら、ただ、目的の物だけを見るように意識をした。
 美しい神を描いたタペストリー。リーファが僅かに力を入れるだけで、それは呆気なく剥がれ、薄らと明かりが燈っていた聖堂の中に眩い光が差し込んだ。
 タペストリーの奥に会ったのは壁ではなかった。それは、天空に続く階段。青白い空に向かって伸びる白銀の美しい階段。
 リーファは、登ろうとしたが、その必要はなかった。
 目的の男は、呼び出さずともそこにいた。白銀の細い髪を結い、鮮やかな青の瞳を持つ美しい男が、階段を降りてきた。怜悧な笑みを浮かべ、まるでリーファを待っていたかのように微笑む。
「そういえば、女聖騎士を、覇王が無理矢理転生させていましたね」
 男は聖堂の中には入らず、天空に続く階段に留まっていた。硝子のような声に、僅かな笑みを含め、超越者の余裕を見せる。
「覇王と共に御登場とは、何かあったのですか? バルベロ」
 そう言って、リーファの方に、慈愛など欠片もない麗眸を向ける。
「覇王と共に、エイスの村に生まれた女、バルベロ。最下層に突き落とされた覇王の影」
 歌うような軽い口調。それは、無機質な響きを持っていた。まるで、硝子の鈴のような声だった。
 リーファは、自らを落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いた。
「私にも前世の記憶があり、前世の私は、エイスの町で生まれた」
 この男のせいだろうか。リーファは、自分の声が、酷く熱く思えた。
「前世の私の名は、セイリア。若葉という意味を持っていた」
 気持ちが高ぶっている所為だろう。リーファは、ぐらりと頭が揺れる感覚がした。しかし、口から発せられるは、人間の声。それは、この男の前では、最大の弱みにして、最大の武器。漸く、リーファはそれを思い出したのだ。
「しかし、皆、前世の私のことを、セイリアと呼ばなかった」
 リーファは嘲笑った。目の前の白銀を。破壊と創造を超越したが故に、多くの物を失った神を。リーファは、その発言の威力を知っているからこそ、重い何かをかき回すような声を流す。
「セフィリス・サラヴァン」
 シュウの、何かを押し殺したような声と、リーファの声が重なった。


「そして、私は前世で死ぬ直前、ある女騎士を殺した」
 表情一つ変えない神を見据えながら、リーファは続けた。
「彼女の名前はバルベロ・インファイン。前世の私に惚れ、前世の私を裏切り、前世の私に甚振り殺された女騎士。バルベロは、前世の私を愛したが故に、神によって輪廻から外された。でも、バルベロの魂が消滅しきる前に、セフィリス・サラヴァンが無理矢理転生させた」
 罪深い魂は輪廻から外される。それが、輪廻に戻ることは、二度と無いはずだった。しかし、セフィリス・サラヴァンの魂は、不可能を可能にした。
 天の深い底に堕とされた魂は、自力で這い上がったのだ。転生する意志のないバルベロの魂を伴って。
「前世の私と彼女、どちらかをシャーナの娘に、どちらかを、憎き神の王国の第一王子に」
 この世へ繋がる二つの穴。セフィリス・サラヴァンは二つを見比べた。
「前世の私は、彼女を心から恨んでいた。だから、自分の身代わりに転生させた。取るに足りない力の女騎士の魂など、あなたがたが気にも留めないことを予測して。そして、あなたがたは、前世の私の思惑通りに動いた。権力欲の塊であるだろう覇王が王族に、覇王が恨んだ女がシャーナに、転生したと思い込んでいた」
 リーファは、静かに、そして、告発するかのように言った。誰を、という問いには答ええられない。告発されるべき者は、一人ではない。しかし、存在しているかどうかも分からない。
 セフィリス・サラヴァンの魂を持っていると分かれば、異端視されるのは当然。しかし、王の第一子という中、殺すことはできない。それ故、生き地獄を味わうことになる。
 リーファは、シュウが置かれた状況が、具体的に分かるわけではない。しかし、容易に想像できる部分は大きかった。
「セフィリス・サラヴァンの魂を持っているのは、私。そして、バルベロ・インファインの魂を持っているのが、ウェルティア・レンシス……つまり、シュウ」
 リーファは、振り返らなかった。シュウと目を合わせることはできない。
「私には記憶が無かった。それは、セフィリス・サラヴァンは、自分の魂を自分で縛るなんてことをしなかったから。でも、バルベロの魂を蝕むため、シュウには前世の記憶を持たせた」
 普通、神の手によって、魂の記憶は消される。しかし、セフィリス・サラヴァンとバルベロの魂は、神の手に渡っていない。
 だから、セフィリス・サラヴァンが、死してなお、人の人生を狂わせ続けることが、可能だったのだ。それは、計算され尽くしていて、一点の不可思議も無い。しかし、それは、呪いのようだった。
 バルベロの魂を持ってしまった男の人生を滅茶苦茶にしたのも、彼の掛けた呪いの一つだったのだろうか。


 パチパチという乾いた拍手。指の先まで洗練された美しさを持つ手で紡がれた拍手も、やはり硝子のようだった。
「見事だよ、セフィリス・サラヴァン」
 当然の如く、宝玉のような冷たい双眸は、リーファを見てはいない。
「あの男に、皆、騙されていたということかな」
 神は、美しく鮮やかな青なのに関わらず、色の無い目を僅かに天に向け、くすりと笑った。
「我々が、覇王と思い込み、バルベロを排そうとしているのを、笑って見ていたということかな」
 リーファは、ゆっくりと息を吐いた。
「でも、それは二の次だったね。セフィリス・サラヴァンは、バルベロしか見えていなかった」
 セフィリス・サラヴァンにとって、バルベロは第一だった。良い意味でも、悪い意味でも。
 リーファは、神に背を向け、踵を返そうとした。とりあおず、神の相手よりも、先にすべきことがある。
「帰るのかな?」
 後ろから降ってくるのは、無機質な声。温かみは欠片も無いが、響きだけは美しい。
「明日出直す」
 リーファはそれだけ言うと、さっさと大聖堂を出た。
 リーファはシュウの方を見なかった。そのまま、真っ直ぐと部屋に戻った。


 お茶を入れ、テーブルにつく。それから、漸く、リーファはシュウと目を合わせた。
 耳鳴りがするのは気のせいではないだろう。体が熱くなるのも、理由は分かっている。でも、理由は求めてなどいない。リーファは、平然を装い、見慣れた漆黒の双眼を見た。
 怒ってはいないようだった。驚いてもいないようだった。ただ、いつになく、シュウは、真面目な顔をしていた。
 暫く、そのまま時間は過ぎた。
「リーファ、どう思っている?」
 あの神の声ばかりを聞いていたからだろうか。いつも聞いている低い声は、酷く暖かかった。
「覇王は、バルベロが苦しむところしか……」
 リーファが最後まで言い終わるより前に、シュウが遮った。
「俺が訊いているのは、あの男の意見じゃない」
 シュウの口調はいつもと違う。
「俺は、ずっとあいつの狂った叫びを聞き続けてきた。お前も、分かってるだろ。あの女が……」
「バルベロは、最後までセフィリス・サラヴァンを愛していた」
 リーファは、間髪入れずに言った。すると、シュウは、何故か不快そうに表情を歪めた。
「それは事実だ」
 淡々とした声ではなかった。苛立つ感情を押さえつけたような声だった。
 何かを自分に求めているのだということは、リーファにも分かった。しかし、シュウが、リーファにどんな答えを求めているか、という最も重要なことは、分からなかった。


「お前は、精神まで侵されたのか?」
 シュウの声は、静かだった。
「セフィリス・サラヴァンは死んだ」
 セフィリス・サラヴァンは死んでいる。 リーファは頭痛と熱くなるだけの体を抑えながら、はっきりと言った。ここにいるのは、リーファとシュウであって、セフィリス・サラヴァンとバルベロではない。
「そうやって、逃げ続けて」
 シュウは顔を下に向け、ぐらりと立ち上がった。座っていた椅子は、絨毯があるため、音も立たない。
「お前は、あの男とどこが違う?」
 目の前に黒の双眸が映った次の瞬間、抵抗の余地もないような力で、椅子から突き落とされ、絨毯に叩きつけられる。立ち上がる間も無く体を押さえつけられ、首に手をかけられる。
 すぐに首を絞められる。死なない程度ではあるが、逃れられぬ黒と、息の苦しさと頭の痛さと体の熱さは、リーファを極限にまで追いやった。
「目を……逸らして……いたのは……君だ」
 リーファはありったけの力を振り絞って、己の声とは思えぬほど掠れきった声を出した。
「違う」
 シュウは、有無を言わせぬような強い声で言った。しかし、それは、決して冷たくはなかった。声は、酷く淀んでいた。名もない感情に支配されながらも、なお透き通っている黒の瞳とは対称的に。
「そう……やって……バルベロなら……絶対しないこと……やって……」
 バルベロは、白の似合う女だった。どこまでも真っ直ぐで、素直で、優しい人間だった。だから、シュウは、女遊びに手を染めたり、言葉使いを荒っぽくしたり、破壊を好んだりするようになった。シュウはバルベロに囚われている、とリーファは思っていた。
 そして、続ける。
「バルベロ……だけ……じゃなくて……覇王にも……」
 シュウは、未だ覇王に固執している。恨み続けている。リーファはそう思った。
 リーファがもう何も言わないと思ったのか、そこで漸く、シュウが口を開いた。
「リーファ、お前は、俺の人生に口を出す権利はないはずだ」
 シュウははっきりと言った。ご尤もだ、とリーファは思った。
「確かに……」
 リーファは自嘲した。しかし、もう限界だった。リーファに静止の力は残っていなかった。諦めたような笑みが自然と零れ、視界が滲んでいく。
「プロメテウス・シ……」
 プロメテウス・シン。それは、内臓を破壊するかのような痛みを走らせる拷問魔術。
 リーファが最後に見たのは、目を見開いたシュウだった。


 バルベロは死んでいる。それでも、バルベロの記憶を持った魂は生きている。その意味を、シュウは理解していた。だから、セフィリス・サラヴァンの魂を持ったリーファの状態を予想するのも、然程難しいことではないはずだった。しかし、自らの気が動転していた所為だろう。気付かなかったシュウ自身も悪い、とは思っていたが。
「何かあった時は言えと言っただろう。馬鹿野郎」
 先程ベッドの中に運んでやって、漸く毛布の中が暖まったのか、気持ち良さそうに眠る女魔術師を見た。
 牢獄の一件があったのに関わらず、学習能力がありそうで、実は学習能力が無いという、一番太刀が悪いパターンの人間だった相方の魔術師。魔術が発動する直前に、鳩尾に一発入れて、意識は何処かに行ってしまっているのだが、とりあえず、何か言わないと気が済まない。
 しかし、それと同時に、気持ちは落ち着いていた。リーファには、まだ思うことがあるが、それは追々、話し合う必要がある、とシュウは考えていた。リーファも、シュウと同じように、死人であるはずのセフィリス・サラヴァンという男に、未だ翻弄される側の人間なのだから。
 バルベロ・インファインの魂を持っていることで、シュウは、色々と苦労してきたのだが、その苦労の中に、魂の意志というものがある。それは、バルベロの想いそのものである。どれだけ、シュウがセフィリス・サラヴァンを恨もうとも、バルベロは彼を愛していた。だから、シュウにとっての憎悪の対象であったとしても、絵画に描かれた覇王、書物の覇王の記述などには、つい目がいってしまうのだ。シュウ自身は、見たくも無いのに関わらず。
 それと同じことだ。
 セフィリス・サラヴァンは、バルベロを恨んでいる。バルベロを苦しめることに悦びを感じている。それは、あの平和主義のリーファに、絶対に使わないような魔術を使わせる程のものだ。シュウは、セフィリス・サラヴァンが、それだけバルベロを恨んでいることを、誰よりも知っていた。
 シュウは溜息を吐いた。リーファの首は、未だに赤い。シュウは、とりあえず、何か冷たいもの持って来てやろう、と思い、すぐ傍にあった布切れを持って、手洗い場に向かった。


 リーファは未だに目を覚まさない。拷問魔法なんて、死んでも受けたくなかったし、何より命の危険を感じたため、思いっきり鳩尾に一発お見舞いしてしまったのが良くなかったらしい。それでも、死ななかっただけ益しだ。
 リーファ・シャーナ・シュライゼ。
 確かに生きようという意志は強いし、聡明とは言い難いが、頭が悪い人間ではない。しかし、長身で、誰もが羨むような美貌と、氷のような冷たい覇気を持った男とは程遠い。
 目の前で眠るのは、背は低くも無く高くも無く、しかし、牢獄生活の所為か肉付きの悪い細身の体を持った若い女。斬ろうと思えばすぐに斬れるし、体だけなら思い通りにできるだろう。
 シュウは、この体の中に入っているのが、あの男の魂だとは信じられなかった。平和主義で、目に見えるものしか見ていないような女が、世界しか見ていない男の魂を持っている。それは、酷く滑稽なものに思えた。
 普段飄々としている所為か、リーファは意外と表情に乏しい。それが、苦しそうに歯を食いしばり、諦めたように微笑んでいた。それは、普段は決して見せない表情で、おぞましさとは違う何かを感じた。
 シュウは、枕に広がるくすんだ茶色の髪を撫でた。髪には、小さな小枝や、蔓の欠片がついているし、在り来たりの色で、綺麗だとは言い難い。それでも、前髪を掻き分けてやれば、くぐもった声を出す。気絶しているわけではなく、本当に眠っているらしい。一々反応を返してくるその様子に、面白い、とシュウは思う。
「さっさと、起きろよ」
 そう言いつつ、無理には起こさない。シュウは、立ち止まって、待たないといけないことを知っていた。この王国のことは、後回しだ。
 窓から見える夜は深く澄み渡り、王宮の明かりは華やかだった。


 リーファは、衝動を理性で封じ込めることができるぐらいまで、回復していた。だから、目の前の状況に、驚く余裕があったし、幸い、冷静にそれを把握することもできた。
 それだけ、衝撃も大きい。
 リーファでなくても、目の前に着物が肌蹴て露になった男の肩が見えれば、驚くだろう。リーファは、すぐ隣で寝入っている黒い塊に、ひやりと冷たい汗が流れるのを感じた。
 幸い、何事も無く、男は爆睡、自分もそのままであるわけだが。
「私って、気を失ったら、どうしてこうなるんだろう」
 リーファは、シュウを起こさないように、ゆっくりと体を起こしながら、そう呟く。
 しかし、牢獄の時もそうだったが、何だかんだで、シュウは絶対にリーファに手を出さない。まず、嫌がることをしない。シュウは、色々とやらかしてくれるが、人の嫌がることはあまりしない人間なのだ。というよりも、人の嫌がることをしたがらない。やっていることが派手なので、気付き難いが、性格の悪い人間ではない。  その性格を知っているからこそ、首を絞められたことを思い出すのは、辛かった。相当怒っていたのだろう、とリーファは思った。最初は、今まで、リーファの魂に翻弄されてきたことが怒りの原因だと思ったが、違うようだった。リーファは、そこまでは分かっていたが、理由は分からない。
「それにしても、寝てるとき、伏せているって、動物か……」
 体が斜め下を向いているのは、人間としてどうだろう、とリーファは思った。しかし、バルベロが、絶対に寝返りを打たずに、常に仰向けで眠っていたことを思い出し、納得する。因みに、リーファが、思い出せるということは、セフィリス・サラヴァンが、それを知っていたということだ。リーファは、詳しくは追究しないようにしつつ、寝息すら立てない男の方へ目をやった。
 バルベロ。それは、神の使いとして生まれながらも、煉獄に堕とされた高次霊(アイオーン)の名。バルベロという人間も、最後まで生命を輝かせていた。堕とされても、輝き続けていた。
 それが、セフィリス・サラヴァンにとって、どれだけ眩しかったか。人は、歴史に名を残した彼を、光と言うだろう。しかし、セフィリス・サラヴァンは、輝かない人だった。どこまでも深く、どこまでも高い闇だった。
「あの人も、可哀想な人だったんだよ」
 誰よりも、輝く光の幸せを願っていたのに、自らの手でそれを堕としてしまった哀しい闇を、リーファは非難することはできない。リーファは、セフィリス・サラヴァンという男が、何を見て、何を感じ、何を考えていたかを知っていた。だから、その愚かさも分かるが、シュウには悪いと思いながらも、嫌いにはなれなかった。
「バルベロは、何故、あんなに強いんだろうね」
 リーファは、そう言い残し、音無く部屋を出た。
 シュウを巻き込むわけにはいかない。これ以上、シュウが振り回される必要はない。これからは、神の矛先が、シュウに向くことは無いだろう。今まで、台無しにされてきた人生を、これからは、自由に生きて欲しい、とリーファは思っていた。
 窓からは、薄らとした光と言えないような光が差し込んでいる。世界は微睡み始めていた。


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