最下層の魔術師
牢獄


 リーファ・シャーナ・シュライゼは牢獄にいた。どうやら、指名手配をされていたようで、森で寝ていたら、いつの間にか牢獄に連れて来られていたのだ。
「やっぱり、一人と二人では全然違うね」
 リーファは、明るく言った。
 しかし、現在の状況は、じめじめとした狭い独房に、一組の男女である。
「手前、呑気なんだよ。そんなこと言ってねーで、ここから脱出しようぜ」
 今回に限っては、シュウが比較的まともなことを言った。
「どうやって?」
「お前はどうやって脱出したんだ?」
 頭がおかしくなったのだろうか。シュウが、苛立ちを抑えながら尋ねると、リーファはあっさりと言った。
「朝にならないと無理。看守が朝食持って来た時に抜け出さないと」
「朝まで我慢するのかよ。面倒臭え」
 因みに、シュウに獄中で過ごした経験は無い。
「あと、私、魔術使えないから、その辺は宜しく」
 リーファは、笑顔で言った。
「宜しくじゃねーよ」
 シュウは、そこまで言った時、リーファの異変に気付いた。目が虚ろだ。別に、元々覇気があるわけではないが、身に纏う雰囲気も、いつもゆりも弱弱しい。
「おいっ、リーファ……」
 体を揺さぶってみれば、一気に何かが切れたかのように、リーファの体は傾き、冷たい石造りの牢の角に、ぐったりと凭れ掛かった。もう、意識はほとんどないようで、瞼は閉じている。
 どこか悪いのか。先程まで何も無かった。外傷も無いはずだ。シュウがそう思った矢先だった。今までリーファがいたところが薄暗くて、気付かなかったのだろう。僅かな光が当たったリーファの首元には、深い切り傷があった。
 シュウは、慌ててリーファの体を引き寄せる。まだ暖かい体に安堵しつつも、急いで衣を首元から肩の方へ無理矢理捲る。
「これは酷え」
 シュウは剣士だ。人の死体は見慣れている。しかし、思わず声を上げてしまうようなものだった。光で照らされた首元から肩に掛けての血塗れの肌。そこには、無数の生傷が広がっていた。


 細心の注意を払い(困ったことに、相手はただの女ではない)、シュウは入念にリーファの体を調べた。そして、原因は、貧血と疲労だという結論に至った。
 火傷も、命に別状が無い程度のものだった。それならば、ゆっくり休ませれば良い話である。シュウは、リーファの体の中でも、背中が異常に酷かったことを考慮して、出来る限り静かに壁に凭れかけさせた。
 シュウは、暫く眠る魔術師を見ていた。しかし、何かを思い出したかのように、袖を捲くった。
 爛れた肌に、毒々しい黒の刻印が浮かび上がっている。
 シャーナのSだ。
 拷問は、法律で禁止されている。しかし、リーファは、この刻印の所為で、拷問を受けてのだろう。それも、相当酷い物を。
 リーファは何も言わなかった。それどころか、最後まで隠し通したのだ。
「どんな精神してんだよ」
 確かに、彼女の様子はおかしかった。しかし、シュウは鈍い方ではない。そんなシュウに、隠し通せる精神とは、如何なるものなのか。
「暇になってしまったじゃねーか」
 どうしてくれるんだ、とシュウは眠り続ける魔術師に尋ねた。


 リーファが薄らと目を開けると、そこには檻の冷たい鉄の棒はなかった。鮮やかな紅い地に、派手な模様。リーファは慌てて体を起こした。体が酷く痛んだが、呻き声を上げるほどのものでもない。リーファは他のことで頭が一杯だった。
 抱かれていたわけではない。ただ、凭れかかっていただけだった。しかし、どうしてこんな状況になったのだろうか。リーファは、記憶に無かった。しかし、記憶に無かったことほど、恐ろしいものは無い。
 とりあえず、目の前で壁に凭れ掛かって眠る男をそのままに、リーファは自分の纏う衣を見た。
 リーファは、未だに藍色の衣を、上手く重ねられない。絶対に、僅かにずれる。それに、拷問の後のため、目を引くほどでもないが、かなり乱れていた。
 しかし、目の前の衣は、綺麗に重ねられていた。藍色の下に重ねられている薄い白の衣は、藍色の衣の下から絶妙な具合で顔を覗かせている。リーファは、サァーっと血の気が引くのを感じた。
 そして、リーファは、再び、眠る男を見た。
 すると、僅かに、男の瞼が動いた。
「お目覚めですか、御姫サマ?」
 漆黒の瞳を薄らと開け、口元をぐにゃりと歪ませる。勿論、ゆっくりと開いてきた目は、決して笑ってなどいなかった。


 リーファは、シュウを恐れたことは一度も無かった。リーファは、自分に正当性があると思っていたからだ。しかし、リーファは、凶悪な笑みを浮かべる目の前の男を、心底怖いと感じた。
 何しろ、何をやらかしたのか記憶も無いし、少なからず、迷惑を掛けたことは列記とした事実だ。
「悪かった。いや、本当に申し訳ないと思ってる。すみません。ごめんなさい」
 とりあえず、リーファは、頭を下げる。謝罪の言葉を連続して述べることが、不自然かどうかなど、リーファの頭の中には無い。
 リーファは、目の前の男が、碌でもない奴だとは思っているが、今回、否があるのは、どう考えても自分だ。それに、いくらシュウだとしても、旅の仲間が、いきなり意識を失うなんてことがあれば、普通に戸惑うだろう。
「いきなり倒れやがって、心配せずとも戸惑うだろ。こっちの身にもなれ。慌てて体調べたら、拷問の痕。そういうことは、先に言っとけ。別に、弱っているからって言って、とって食う気はさらさらねーよ」
 ご尤もです。
 膝に肘を突き、いつも鋭い眼光をさらに鋭くして、乱暴に言うシュウに対して、リーファは、そう思った。
「手前の所為で、全身痛い」
「はい、すみません。以後気をつけます」
 リーファが再び丁寧に謝ると、シュウはぶっきらぼうに言った。
「礼」
「有り難うございました」
 ここでまた、丁寧にリーファは頭を下げた。すると、シュウは徐に溜息を吐いた。
「疲れた。手前は、起きたら起きたで、本当に迷惑だ」
 すみません、とリーファが言いかけた時、されを阻むように、シュウは続けた。
「一回、手前も、自分に合わない台詞並べてみろ」
 リーファは、鈍いわけではなかったので、シュウの台詞の意味は瞬時に理解できた。
「本当に申し訳ございませんでした」
 それしか言うことは無い。
 シュウは、まだ何かを言いたげだったが、それを飲み込むようにして牢の外に目を向けた。


 何か面白い話しろよ、とシュウに言われたリーファは、特にする話も無かったので、リクエストのあった獄中生活での武勇伝を話して聞かせた。
「多分、それ宮廷魔術師筆頭の、フィーリィ・クィルナ・クラリアだ」
 ケラケラと笑う男は、心底愉快そうだった。
「部下の信用も低い感じだったよ」
 リーファは、さらりとそう言った。暫くすると、リーファのネタも切れ、シュウの笑いも収まった。
「シュウも何か喋ってよ。昔のことを話したくないのなら、何か物語でいいからさ。私が知っているのは無しね」
 シュウは、あからさまに嫌そうな顔をしたが、リーファの顔をまじまじと見てから、溜息を吐いた。
「かぐや姫って話知ってるか?」
 姫というからには、御姫様が出てくるのだろう。リーファの中で、姫が出てくるか否かは、好き嫌いと何ら関わり合いはない。しかし、シュウが語るのなら別だ。
「知らない」
 リーファは、にやりと笑った。シュウは、さらに嫌そうな顔をした。
 しかし、シュウは、低い声で語り始めた。お世辞にも上手いとは言い難かったが、リーファは大筋だけはしっかりと掴んだ。
「へぇー、月に帰っちゃったんだ」
 リーファの第一番の感想は、それだった。
「無責任だとは思わねーか?」
 面倒臭そうに、シュウが尋ねた。
「惚れた方が悪いと思うけど」
 リーファがさらりとそう言うと、シュウが非難の混じった目を向けた。
 シュウのその反応を見て、意外と心はメルヘンなのか、とリーファは思ったが、黙っていた。
「お姫様だろう。月に王子様がいるかもしれないし、本当に残りたいのなら、残れば良いと思うけどな」
 そう言ったリーファは、自分こそある意味メルヘンで、普通とは言いがたい感想を言っていることに気付いていない。
「世の中、手前みたいな女ばかりじゃねーよ」
 リーファは、自分が普通の人間だとは思っていなかったが、取り分け変人であるとも思っていない。
「今度は、アーサー王伝説みたいなのが聞きたいね」
 話し疲れたのか、心なしぐったりとしているシュウに、リーファはさらりと言った。
「長えよ。既に、物語じゃねーよ。手前は子どもか?」
「シュウに言われたら、お終いだ」
 リーファは、律儀に返答するシュウに、くすりと笑って答えた。


 それからすぐのことだった。突然、地響きを立てて、建物が崩れる。すぐに人のざわめきが響き、そして、再び大きな衝撃がした時、ついに牢は崩壊した。
 黙って外に出る二人の前に聳えるのは、大地から突出した巨大な岩。自然属性の魔術で破壊したらしい。
 リーファは、心当たりがあった。否、あり過ぎた。
 そして、リーファの期待は、裏切られなかった。
「助けに来たよ。大丈夫?」
 崩壊した建物の影から走ってきたのは、灰色の世界の中の唯一の青。探し人を見つけた嬉しさを全身から発しながら言った。
「あの性悪天使が、イカガワシイコトされていないか、心配って言ってた」
 おそらく、ご本人がいたら、すぐに喧嘩に発展していただろうが、彼は腐っても守護天使。牢獄を襲うわけにはいかないのだろう。
 ミューシアは、きょとんと首を傾げて尋ねた。
「イカガワシイコトって何?」
 シュウは、あからさまに不快そうな顔をしていた。リーファも、溜息を吐きたかったが、シュウの反応から、特に何もなかったことが窺えたので、少し安心した。
「リーファ、あの天使斬って良いか?」
「シュウ、極悪天使斬ってくれるの?」
 いかにも危なそうな剣士の口元に浮かぶ笑み。純粋そうな小さな女の子の期待に輝く瞳。
 見かけだけは、よくある戦物の小説の微笑ましい一場面のようではあったが、言葉が全然微笑ましくない。むしろ、危険だ。
 リーファは、呆れたように溜息を吐いた。しかし、それはすぐに笑みに変わる。
「駄目。だけど、今日だけは、目の前の奴ら、幾ら斬っても文句は言わない」
 リーファは、いつのまにか目の前に並ぶ看守たちを横目で見つつ、さらりと言った。背中は未だ、酷く痛むのだ。
 シュウは口元をぐにゃりと歪ませ、狂犬のように笑みを浮かべながら、舐めまわすかのように看守たちを見渡した。ミューシアは、リーファの役に立てるという喜びに、笑顔で一杯だ。
 看守たちが、自らが置かれた状況に気付くのは、あまりにも遅かった。
 リーファ・シャーナ・シュライゼ。連れの活躍を見て、ふわりと微笑む魔術師は、平和主義者と言えども、決して神仏ではない。
 そして、彼女は万能な人間でもない。混乱の所為だろうか。ミューシアの目の周りが僅かに腫れていて、涙の痕があったことに、リーファは気付かなかった。
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